思い出の場所が消えてしまいました
ここには、かつて、佐々木会長とSさん、Nさん、T君の4人チームで設計した市民みんなが楽しめる海浜公園がありました。津波が、建物も施設もみんな流し去り、残ったのは山と平地をつなぐ橋だけ。その橋も柱を残して、ほとんどが破壊されてしまいました。この橋も佐々木会長たちのチームが設計しました。
2013年4月20日撮影
2011年4月30日・5月1日 石巻市で被災状況の調査
私たちは、大震災が発生した3月11日から間もない4月30日、5月1日の二日間に渡って、宮城県石巻市に被災状況の調査に出向きました。左から、みやぎ環境カウンセラー協会理事長の溝口さん、岡山環境カウンセラー協会会長の藤本さん、弊会会長の佐々木進市です。レンタカーで被災地を回りました。
事前にマスコミ報道などで、ボランティアが集まりすぎて、震災復旧活動のさまたげになる場合もあるとの、情報を入手していました。それで、調査場所はそのリスクの少ない場所をあらかじめ選択しました。予想通り、私たちの訪問した場所には、ほとんど、ボランティアは入っていませんでした。避難場所になっていた公民館を訪問したときには、九州からきたボランティアの若者たちに出会いました。
市街地の沿道につまれた廃棄物の山です。いたるところに同じような光景が広がっていました。畳などもたくさん廃棄されて、野ざらしになっている状況でした。
海から上がってきたヘドロのせいでしょうか、異臭もただよっていました。
ほとんどが津波に流された石巻市牡鹿地区の中心部です。牡鹿支所の建物は標高が高かったのが幸いして、ほぼ無傷でした。頑丈なコンクリートの建物以外は、ほとんど津波に流されてしまったようでした。自衛隊の方が、精力的に復旧活動されているのを見受けましたが,住民の方はほとんど見かけませんでした。
支所は自衛隊の方の基地などにも使われていました。無料の電話が何台も置かれていましたが、内部にも市民の方の姿はほとんどありませんでした。5月1日時点では、この地区は無人状態に近かったのかも知れません。家も人も無くなっている無人の町で、私たちはただ、ぼう然とするばかりでした。
2011年5月25日 取手競輪場に被災者を慰問
取手市では南相馬市の被災者の一時的な避難先として、取手競輪場内の施設を提供しました。私たちは、ボランティアの若者とともに、避難されている方を慰問することにしました。似顔絵をプレゼントすることになり、限られた時間でしたが、三人の若者アーティストがおじいちゃん、おばあちゃんから子供さんまでの似顔絵をプレゼントしました。
自分はどんな顔に描かれるのだろう。被災者のみなさん、最初はみんな不安そうでしたが、書き手と言葉を交わしながら、似顔絵が出来上がっていくうちに、打解けた表情に変わっていくのが、印象的でした。
あのとき、自分はどんな顔をしていたんだろう。いろんな意味で思い出になるのが似顔絵です。
2011年10月28日 全国の環境カウンセラーが南相馬市に集まりました
第2回のECU主催環境カウンセラー全国交流会は福島県で開催されました。前日に講演会、勉強会をすませ、2日目はバスを借り切って南相馬市を訪問しました。
公民館で、被災者の方たちの話しを聞く会が催されました。おいしい手作りの昼食も食べさせていただきました。
福島第一原子力発電所からちょうど20キロの、国道6号線に設置された検問所をおとずれました。検問にあたる警察官は、全国の警察から交代で派遣されてきているとのことでした。この国道6号線は我が取手市までつながっているのですが、今でも福島第一発電所で分断されています。もちろん、気持ちだけは、元のように、つながっているままですが。
2013年4月21日 南相馬市で弊会共催のイベント開催
何十年ぶりかの季節外れの大雪の日、南相馬市で、復興再生事業『相双~苦難を越え〝環境・生活〟への創造』のイベントが開催されました。弊会は共催団体として参加しました。多くの県外の環境カウンセラーも応援にかけつけてくれました。岡山県の津山市長、倉敷市長からメッセージが寄せられ、弊会会長の佐々木が代読しました。
写真右は、福島環境カウンセラー協会会長でもあり、主催者代表の南相馬市在住の長澤さん。
弊会の提唱するMAKANAKAとして南相馬市のみなさんに贈られた三曲が次々に披露されました。
今回提供されたMAKANAIKA3曲は、「虹のレクイエム」、「竹とんぼの空よ」、「浜の松風」です。3曲とも作詞は全て佐々木会長が担当しました。これから、地元のみなさんが地元で歌い続けてくれますように、願いをこめてつくった3曲です。
MAKANAIKAは、今は亡きピート・シーガーさんたちがはじめた、ハドソン川浄化のためのクリアウォーター・フェスティバルのような大規模ムーブメントではありません。人口減少の著しい南相馬市にこれからも住み続けようと決意している方々にとって、少しでもこころの支えとなりますようにと歌をつくりました。